2017/08/08

メガネは敵!

わが家には11月で2歳になるきょうだいネコが2匹いる。
クロネコの「た助」と、サビネコの「あき恵」。

先代のきょうだいネコ「ぼちゃ彦」と「こ太郎」は、
2013年と2014年に22歳と23歳の大往生。
なついていた外ネコの「とも」が2015年11月の初めに突然旅に出てしまい、
「触れるネコゼロ状態」に耐えることができなくなったわたし。
パートナーとともに、保護ネコ団体からノラの子2匹を譲り受けた。

ちなみにわが家のネコの名前は、パートナーが付けている。

日々興味深い性格を見せてくれる2匹だが、本日は、た助編。

メガネは敵!

このところ老眼が進んで、メガネをはずすことが増えた。
なにげなくメガネをはずして、机の上に置いていると、どこからともなくた助がやってくる。
で、メガネを突っついて、下に落とすのだ。なぜだ。

IMG_0191_convert_20170808000809.jpg

IMG_0192_convert_20170808000900.jpg

IMG_0193_convert_20170808000938.jpg

IMG_0194_convert_20170808001011.jpg
2017/08/05

自らに

昨日のスタッフブログ「すきまの空」を読んで、堀口大學の詩を思い出した。
高校生のころに愛読していた。

「夕ぐれの時はよい時」 『月光とピエロ』 堀口大學

夕ぐれの時はよい時、
かぎりなくやさしいひと時。

それは季節にかかはらぬ、

冬なれば煖炉のかたはら、

夏なれば大樹の木かげ、

それはいつも神秘に満ち、

それはいつも人の心を誘ふ、

それは人の心が、

ときに、しばしば、

静寂を愛することを

知つてゐるもののやうに、

小声にささやき、小声にかたる……

夕ぐれの時はよい時、

かぎりなくやさしいひと時。

若さににほふ人々の為めには、
それは愛撫に満ちたひと時、
それはやさしさに溢れたひと時、
それは希望でいつぱいなひと時、
また青春の夢とほく
失ひはてた人々の為めには、
それはやさしい思ひ出のひと時、
それは過ぎ去つた夢の酩酊、
それは今日の心には痛いけれど、
しかも全く忘れかねた
その上の日のなつかしい移り香。

夕ぐれの時はよい時、
かぎりなくやさしいひと時。

夕ぐれのこの憂鬱は何所から来るのだらうか?

だれもそれを知らぬ!

(おお! だれが何を知つてゐるものか?)

それは夜とともに密度を増し、

人をより強き夢幻へとみちびく……

夕ぐれの時はよい時、

かぎりなくやさしいひと時。

夕ぐれ時、

自然は人に安息をすすめるやうだ。

風は落ち、

ものの響は絶え、

人は花の呼吸をきき得るやうな気がする、

今まで風にゆられてゐた草の葉も

たちまち静まりかへり、

小鳥は翼の間に頭をうづめる……

夕ぐれの時はよい時、
かぎりなくやさしいひと時。


同じく堀口大學の「自らに」 『幸福のパン種』

雨の日は 雨を愛さう。
風の日は 風を好まう。
晴れた日は 散歩をしよう。
貧しくば 心に富まう。

パートナーとの結婚の挨拶状(当然、パートナーの手作り)に、この詩を載せた。
うーん、何年ぶりかで、思い出した。



2017/07/29

パートナーのこと

以前から空のブログをのぞいてくださっていた方は、
予告なしのリニューアルに、ん? と思われたかもしれない。

もともと空のブログは、わたしのパートナーの啓治が、
彼特有のゆる~い感じで、日々の雑感、
おもに散歩の風景を綴っていた。

その啓治が、昨年11月に倒れた。
長くなるが、啓治のことを書きたい。

気が向いたら読んでください。


***

檀上啓治が脳出血で昨年の11月4日に倒れてから、
8月4日で9か月が過ぎようとしている。
周囲のみなさんのさまざまな助けを借りながら、ここまで過ごすことができた。

本当にありがとうございます。

檀上啓治と檀上聖子は「本作り空Sola」(出版企画・編集・制作工房/2013年法人化)
という小さな会社を2004年に立ち上げ、二人三脚で運営してきた。
昨年11月に啓治が倒れてからは、社内体制・社外体制を見直し、
本当の意味で「会社」として機能させるべく調整を続けた。
外部スタッフやアルバイトのみんなのおかげで、体制は整ってきた。
いままで2人だけでできなかったことも「チーム空Sola」として
取り組むことで、新しい可能性も感じている。

Solaを続けていくことがわたしの希望であり、
啓治の希望でもあると信じている。

啓治が築いてくれた土台の堅牢さに、いまさらながら気づく。
仕事だけではない、日常のさまざまな場面でも然り。

この9か月を3つのステージにわけて、ふりかえってみたい。

******

●第1ステージ
昨年11月4日の昼過ぎに自宅で倒れ、救急搬送されたときには、
すでに意識がなく、A病院に到着後、挿管、緊急手術。
脳出血(右視床出血)による急性水頭症、脳室ドレナージ術をおこなう。
意識が戻るまで3週間から3か月くらいかかるかもしれないという説明を受ける。
11月10日に気管切開術(長期にわたる挿管の可能性あり)。
10日目くらいだろうか。記憶が混濁している。
いつものようにICUに面会に行ったとき、
主治医から「おそらく意識は戻りません」と言われた。
アタマが真っ白になる、というのはこういう状況のことを言うのだろうか。
このまま意識が戻らない。このままずっと。
医師の言葉を理解することができなかった。
なんとか駐車場まで行って、妹に電話をかけたことまでは覚えている。
そのあとどうやって家まで帰ったかはわからない。
車を運転していったことは確かだ。

わたしの妹は医学の道を志していたことがあり、倒れてからいままで、
病状の理解を助けてくれたり、治療に関してあらゆる可能性を探り続けてくれている。
CTやMRIの画像から、妹は早い時期に覚悟をしていたようだ。
右視床の出血が大きく、直接の血腫が中脳まで及んでいた。
大脳の脳波は微弱で徐波。遷延性意識障害(植物状態)という状態だった。
自発呼吸が戻ったので、今後人工呼吸器の装着はしない、という選択をする。
12月に入り療養型の病院探しを始めた。急性期の病院に3か月以上留まることはできない。
続発性水頭症(慢性水頭症)に移行したため、脳室腹腔短絡術(V-Pシャント)をおこなう。
術後、開眼したが、瞳孔の対抗反射は見られない。
H病院のリハビリ病棟に転院が決まった。
12月27日の転院前日、同室にインフルエンザ発症、転院が1月4日に延期になった。

第1ステージは、現状を正確に理解し、対処することに追われた日々だった。


●第2ステージ
1月4日にH病院に転院。
H病院の2階リハビリ病棟は、入院期間が最長で9か月、自宅に帰ることを目的とした病棟だ。
元気のいい看護師と理学療法士のコンビが、転院初日、
角質でばりばりだった足のウラを何度も足湯をしながらつるつるにしてくれた。
車いすに乗せ、外の空気を吸わせてくれたり、
「だんじょーさーん、目をあけてー」とがんがん揺らして、
「あきらめないからねー」と声かけをして、
積極的なリハビリをおこなってくれた。
そんなようすをありがたいと思いながらも、どこかで回復をあきらめていた。

4階の療養病棟があき、4階に移動。活気のある2階とは違い、
自力で動けない患者や長期入院の患者がほとんどの4階は静かだった。
身体リハビリは週3回程度、言語リハビリが2回程度入るが、
できるだけ体が硬くならないように、家族でできるリハビリを習うことにした。
担当の理学療法士のリハビリ時間にあわせて何度か見学し、
簡単なリハビリを教えてもらう。
現状維持。このまま意識が戻らないのなら、わたしにできることは、
体が硬くならないように動かしてあげることくらい。
同室者は3人。ひとりはおそらく啓治と同じように意識障害があり、
もう一人は歩くことができ、もう一人は意識はあるがベットから動けない。
「意識がなくてよかった」。回復する可能性が見込めないのなら、意識がないほうがいい。
いまの自分の状況がわかって苦しむ姿を見るのはつらい。
第2ステージは、こんなふうに思いながら、リハビリを続けていた。
お見舞いの申し出もありがたく受けられるようになってきた。

4階のリハビリスタッフとの「連絡帳」を作った。
お見舞いのヒトにも強制的に書いてもらう。
床頭台に「本作り空文庫」を設置。作った本たちを数冊置く。
1か月目安で交換。素敵なポップはヒロコさんが作ってくれた。
看護スタッフやリハビリスタッフが立ち読みする程度。
子どもをもつ看護スタッフから「借りてもいいのかしら」と何度か聞かれる。
「借りてください」と叫んでいるが、「汚すといけないから」となかなか借りてくれない。
病院内の保育所があるそうだからそこの子どもを狙うか。
空文庫は、対象年齢が高い本が多く厳しいか。

本作り空文庫

わたしの体が動くあいだはいいけれど、わたしが倒れたり、病気になったらどうしよう、
という恐怖がときに襲ってきた。
あとどれくらいこの状況が続くのだろうかと。

●第3ステージ
これからの生活を考えると、身体障害者手帳の取得と障害者年金の受給は必須だ。
それにはまず障害固定の診断書が必要になる。障害固定の診断は通常半年の経過を待ってなされる。
「障害固定」は一方で必要な診断だが、治る見込みがないという診断がくだされ、
リハビリが打ち切られることでもある。
医師に頼みこみ、半年を過ぎてもしばらく現状のリハビリを続けてもらうことになった。
3人のリハビリスタッフの協力のおかげで、身体リハビリが週3~4回、言語リハビリが2回と
以前より回数が増えた。

4月に入って、初めてのカンファレンスをおこなった。医師、看護師、理学療法士、妹とわたし。
1月に4階に移ったときに、主治医から「胃ろう」を進められた。
長期になる場合、経鼻経管栄養より、胃ろうのほうが患者のストレスが少ないと。
そのときは「胃ろう」をイメージだけでとらえていて、あまり積極的に考えることができなかった。
カンファレンス前に妹から胃ろうに関する説明を受け、本も読んだ。
胃ろうを正確に理解していなかったことに気づいた。
同時に妹は「白雪姫プロジェクト」(植物状態と言われる人の回復サイト)とある論文を教えてくれた。

白雪姫プロジェクト - 植物状態と言われる人の回復サイト

*脳幹出血で倒れた特別支援学校の元同僚のもとに毎日通い、意識はあると回復を信じて「鬼のリハビリ」をやり続けた山元加津子さん。

「特別支援学校に長くいて、子どもたちが教えてくれたことは、意識がないように見えても、実は、すべての人に思いがあり、全部わかっているし、聞こえているし、見えているということでした。そして、もうひとつは、人間の体や脳にはものすごい回復力があり、あきらめなければ思いは伝えあえるし、きっと回復していくんだということでした。それは、間違いがないことだと私は思っています。ところが、残念なことに、それはまだ、一般常識ではないのです。私は、情報がないために、知らないというただそれだけの理由で、思いが伝えあえなかったり、回復をあきらめなければならない方がおられることが嫌なのです。 山元加津子」(「白雪姫プロジェクト」ホームページより)

柳本論文

「科学が十分に進化したかのごとくに見受けられる現代において、例えば、脳内の拡延性抑制、または、脱分極現象は、1944年に示されたその発見から、少なくとも50年間、ヒトでは生じないもの、何等かのアーチファクト(観察エラー) であろうと無視され続けてきました。手足を動かす、言葉をしゃべる、言葉を理解し頷く、といった脳の運動機能は、 意識活動の存在を証明し、外部とのコミュニケーション手段として極めて重要ですが、そのような脳の局在性運動機能の脱落、または、不在によって、その局在性や全体性さえもが未だに不明な、「意識活動」の存在を否定することはできません。ロックト・イン状態へ回復したにも拘わらず、 意識活動の存在が無視され続けているという状況は、今もどこかで生じているに違いありません。命や意識の活動に関して現代科学は、まだまだ解らないことが多い、または、 殆どわかっていない、と筆者は理解しています。」(「意識障害の成因と神経系脱分極現象」柳本広二 p36より)

これらを読んで、いままでの自分の差別的な言動と、「意識がない」と決めつけていた自分に気づいた。
「意識がないほうがいい」と決めつけ、啓治と同室の意識のある患者の存在を認めていなかった自分がいた。
「意識がない」「回復しない」とあきらめていた自分がいた。
今の日本では、植物状態を望まないからといって、積極的栄養を与えない選択肢はない。
高齢で病状が極めて厳しく本人の意思確認が可能な場合に、
積極的栄養を与えないという選択肢がある可能性はあるが、啓治の場合にそれはない。
たとえば自分が植物状態になったときにどうなのか、啓治本人が本当は何を望んでいるかを、
いまいくら考えてもどうにもならない。
現状を受け入れる選択肢しかないとしたら、啓治の体のストレスをできるだけ少なくする
(少なくなる可能性を選択する)こと。
経鼻の管をぬき、残っている可能性のある嗅覚を開放すること。
啓治のわずかなサインを見逃さないように、
現状維持ではなく回復を信じて接していくこと。

4月27日に、A病院に転院して、胃ろうを造設し、
5月1日に無事にH病院に戻ってきた。
できるだけ刺激を与えること。
リハビリ、音楽、アロマ……。
あとどれくらい生きるのかと、「意識のある人」に対して思い悩むだろうか。
それぞれの寿命を生きるだけ。

簡単なCDプレイヤーとCD、昔話集(語りのための)、
鳥取大学発のアロマ「リ・ブレイン」を病室に置いた。
マッサージ用のアロマオイルは友人のひとみさんが持ってきてくれた。

気のせいかもしれない。でもその表情は、1回しかしてくれない。
啓治の病室に入り、「けーさん、来たよー」と啓治を揺さぶる。
そのとき笑うのだ。笑うように見えるだけかもしれない。
でもうれしそうに笑うのだ。
そのあといくらリハビリをやっても、「その顔」はしてくれない。
明日も「その顔」を見に病室に入るのだ。

6月24日に、白雪姫プロジェクトの山元加津子さんの講演会が、
朝霞市民会館でおこなわれた。
講演会じたいは聞けなかったが、午前中に加津子さんに会うことができた。

目下の課題は、わたし1人で「啓治をベッド上に座らせること」。
力がなくても起こせる方法を、加津子さんから実演を交えて教えてもらった。

わたしが安全にやる分には、という条件付きで医師のOKもとった。
とはいえなかなか難しい。
なるべく力を抜いて、近づいて相手の重さを利用することがコツのようだ。

******

ようやくスタートラインに着いたのかもしれない。

病院にいる啓治に会いに行くことが、わたしの日常になった。

このごろ、啓治の表情が豊かになった。
両目を開けていることもある。声のする方向を目で追うこともある。
週1回程度だが、車椅子に乗るリハも続けている。
最初に比べると、車椅子に安定して移れるようになってきた。
この前、両目が開いた状態で、ベッド上に5分ほど座っていたそうだ。
リハのスタッフ、看護師さんが、わたしが見たら喜ぶのにと、あとから
伝えてくれた。


啓治の病状を書いたことで、離れていくヒトがいたとしても、仕方ないと思う。
これからも、たまに啓治のようすを書いていきたい。

啓治自身のブログも、復活しておこうと思う。
こちらも気が向いたら読んでください。
「人間奈良漬け」の物語

最後まで読んでくださってありがとうございます。